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2011年4月  
 「あれからひと月」 2011/4/8

はじめまして、イラストレーターの溝呂木陽です。
あの巨大地震からひと月が経とうとしています。特に被災地の皆様は、大変な状況の中で日々を過ごしていることと思います。
謹んで、たくさんの痛手から少しでも早く立ち直り出来ますことをお祈りさせていただきます。


こちら、関東でもそのときは恐ろしく、今はなんとか日常を過ごそうと努力しております。
「日常」、この言葉が今ほど輝く時はありません。
日々暮らす、笑顔を持つ、好きなものにさわる、こんな事がいかに大切であったか思い知らされる日々。今は少しでも出来る限り笑顔を取り戻し、日常を噛み締めることが私に出来る精一杯のことです。こちらのコラムでも、私が過去に旅行先で見かけたパリの日常の風景、気にとまったもの、好きなクルマのことなどを綴ってみたいと思っています。


これは数年前に見かけたパリの日常の一コマ。見回してください。クーペフィアットと旧ミニ、スマート、そして古い80年代のルノーキャトル。5月の光が斜めから刺し、通りを明るく照らし、そこを風が吹き抜けています。パリを散歩するのが好きで、2-3年に一度、2週間ほど部屋を借りて、スケッチブックを持って訪ねることが良くありました。そこでいつも探すのがこんな日常の風景でした。5-6年前にはまだ古いキャトルもちらほら。家族のためのクルマとして1台のキャトルを長く所有する身としては、かの地での姿は特に目にするとうれしい物でした。他にもシトロエンやプジョー、チンクエチェントやアルファロメオなど、街並にとけ込む姿は絵のようでした。


特別な観光地でもなく、特別美人のモデルがいるわけでもなく、そこをふっと横切る人とクルマ、街並をカメラでおさめスケッチブックに水彩で記録していくのが楽しみでした。
一昨年にも家族でパリに2週間部屋を借り、こんな日常を切り取って歩き回りました。ただひとつ、数年前にあれだけいた古いクルマがほとんど姿を消し、新しいクルマに置きかわっていたことは軽いショックでした。
もちろんパリの日常の中では、そんなことは旅行者の感傷で、気にも留まらないことでしょう。そんな気にも留まらない日常こそ、また愛らしくいとおしいものだと感じるものです。
日常を取り戻し、日常を慈しもう。パリを訪ねたここ15年ほどのアルバムを振り返り、また家族との日々のアルバムをめくっていると、力がわいてくるのを感じます。


災害で振り返るべきものを失ってしまった多くの方々に、少しでも明るい明日が来ることを願ってやみません。
私は、毎日その日を大切に暮らしていきたいです。


 コブラに夢中 2011/4/15 

中学生の頃、小さな写真で見て一発で夢中になったのは、黒い427コブラの姿だった。まだ当時は情報が少なく、スクランブルカーマガジンの広告ページにあったモノクロ写真を見ながら官製はがきの裏に、ペンと薄墨を使ってイラストに仕上げ、当時創刊されたばかりのオートクラブという雑誌に投稿したのを昨日のことのように思い出す。


中学生の頃、小さな写真で見て一発で夢中になったのは、黒い427コブラの姿だった。まだ当時は情報が少なく、スクランブルカーマガジンの広告ページにあったモノクロ写真を見ながら官製はがきの裏に、ペンと薄墨を使ってイラストに仕上げ、当時創刊されたばかりのオートクラブという雑誌に投稿したのを昨日のことのように思い出す。

その頃からクルマのイラストを毎日のように描くようになり、ドライバーの小谷さん、オートスポーツの村上もとかさん、カートップのBOWさんと言ったプロのイラストレーターの方が1枚1枚に評を描いてくれるところを選んで毎月15枚近く投稿していたのだ。官製はがきはイラストボードになり、定型封筒で送れる最大サイズで、毎月工夫を凝らして二十歳頃まで投稿を続けていた。

オートクラブではコブラ好きで知られるテリー佐原さんが選者だったこともあり、最初にコブラを選んで自信を持って投稿した。当時15歳、写真をそっくりに描こうとして、フェンダーの映り込みのトーンの切り替えがプレスラインと間違われないように、というテリーさんの評の意味があまり良く理解出来なかったのも恥ずかしい限りだ。

でもとても褒めて頂いて、本屋で掲載誌を手に取った時は小躍りしたい気分になった。それからも、フェラーリGTOやアルファロメオ ジュリアGTA、ミニクーパーやジャガーDタイプなど、古いクルマばかりを選んで投稿を続け、毎回編集部に好き勝手に手紙も添えていたので喜ばれたのだろう。高校生の頃には編集部に出入りするとようになり、イラストも任されるようになった。そのころが僕のイラストレーターのデビューかもしれない。大人の世界、そんな非日常がまぶしかった。

英国のACカーズの軽量スポーツに、テキサス人ドライバーのキャロルシェルビーがフォードV8エンジンを押し込んだことで生まれたコブラは、ちょうどその頃にアメリカのAMTの1/25とMPCの1/16プラモデルキットが相次いで再販になったおかげで、ブームと言える盛り上がりを見せるようになった。

AMTのコブラは289と言う細身のタイプ、MPCはファットなオーバーフェンダーを持つ427タイプ。神宮外苑で行われていたニューイヤーミーティングに出かけて、元式場壮吉氏所有の緑の427コブラを見た時は、オリンパスの小さなカメラで何枚も写真を撮りながら興奮していた。

最初はマッシブな塊感のある427に夢中になっていたのに、気がつくと、289の特に初期レーサータイプに興味が移っていた。
このイラストを見て欲しい。初期の1963年のコブラ289のセブリング仕様。小さめにフレアしたオーバーフェンダーと軽快なロールバー、そして大好きなハリブラント製のマグネシウムホイール。このホイールはアメリカンレーサーに欠かせないアイテムで、AMTのプラモデルの初版バージョンにつく貴重品。このアイテムを使いたくて、このイラストそのままの模型を作って机の上で悦に入っている。僕にとってのコブラは、やはりこの289レーサーにとどめを刺す。

ハリブラント、デイブ・マクドナルド、グッドイヤーブルーストリーク、そんな呪文のような言葉にこだわって作り上げたモデルは、僕の宝物だ。


コブラが大好きで、個人で模型雑誌を始めてしまい、創刊号の特集にコブラを選んでしまった。
これからも、コブラの絵を、模型を作り続けていく事だろう。
 雨のポルシェ550スパイダー 2011/4/22 
Oさんの話をしよう。高校の先輩で、父の遊び友達でもあったOさんは歌舞伎や相撲を愛し、ウォーホールやリキテンスタインを自宅に飾る文化人で、大変なクルマ好きだった。常に冗談を言い、ゲラゲラと笑いながらパワフルに行動するOさんは、中学生のころから僕を応援してくれ、個展でも必ず一番にお気に入りの絵を購入していただき、お贈りした愛車のプラモデルやイラストも数しれない。

Oさんの所有するクルマはどれもかっこ良かった。ランチア・フルビアラリーもポルシェ356もケイターハムスーパーセブンも、どれも20年から30年以上の所有で、外見はピカピカではなくても、雨の日も暑い日も、スポーツカーで自分の会社へ通勤してしまうのだ。
日本のミッレミリアにも早くから出場されていて、その人柄から仲間にとても愛されている人だった。

「550買ったんだ」という電話を、Oさんからもらった時は驚いた。55歳の誕生プレゼントに、1954年式のポルシェ550スパイダーを自分に贈ったのだ。

ポルシェが作った4カムエンジン、ミッドシップの小さなレーシングカーは、シルバーに塗られた薄いアルミボディの初期型で、ジェームス・ディーンの有名な550の前の型になる。これでOさんは本気でイタリアのミッレミリアに出るつもりだった。
まず誘われたのは神戸だった。助手席にはウィンドウもなくボンネットからつるんとダッシュボードにアルミがつながっている。ドライバーの前に小さなフェアリングがつくのみである。なんとOさんは神戸の公道ラリーイベントに、これで高速を自走して行くと言うのだ。3日間のイベントを加えて、走行距離1700キロ!こんな人はちょっといない。

「だって、もったいないじゃない。一番楽しい部分を味わわなきゃ。」というOさんとともに、ぼくはフルフェイスをかぶって助手席に潜り込んだ。コクピットは意外に快適で、膝にシフトのたびにOさんの右腕が押し付けられるのをのぞけば、それほど窮屈ではない。バサバサとしたエンジン音は後ろへ飛んで行き、前のトラックからの跳ね石さえ気をつければ、そのドライブは声を上げたくなるほど気分が良かった。神戸に着いたのは7時間後。さすがにへとへとだった。 3日間のイベント、六甲山でのコーナリング、明石海峡大橋の眺め、四国の素晴らしいホテル。公道ラリーには、フィアットアバルトやアストンマーティン、オスカと言ったすばらしいクルマと上品なドライバーとそのカップル、(ご夫婦の参加が多い)別世界の夢のような体験だった。クルマたちは皆きらきらと輝いていた。
ポンテペルレ2001では、僕たちは3位に入賞した。

それから3回続けて神戸のイベントに遠征した。3回目の2003年、日程は雨の連続で、オープンのクルマには過酷だった。コースの曲がり角を書き込んだコマ図は雨でぼろぼろになり風で飛ばされ、ゴアテックスの下は全身下着までびしょ濡れ、視界は悪くヘルメットの中は曇り、首から3つのストップウォーッチを下げたナビゲーションも楽ではなかった。さぞドライバーの運転も気を使った事と思う。Oさんはそんなときでも明るく笑い飛ばしながら、雨の中のサーキットのタイム計測、トンネルを抜けるエンジン音のこだまするさまを実に楽しんで走行されていた。雨のコーナリーングスピードはちょっと尋常ではなく、もしかしたら死んじゃうかもと、内心思わせるだけのスリルがあった。結果は芳しくなかったが、すべての走行を終えたあとの安心感と、まだ体が興奮している感じは今でも覚えている。
走り終えて雨で塗れた550スパイダーは、ちょっと映画の中のワンシーンのようだった。コクピットには、出場者仲間に借りた大きめの傘をかぶせ、長い距離を走ったクルマを労った。

その年の暮れ、あいかわらず元気な声で「あきら、今度の軽井沢一緒に出よう。血液型なんだっけ?」と言う電話をいただいたのが最後だった。
その数日後、Oさんはご自宅で突然ご病気で亡くなられた。スポーツカー好きの、人生を楽しみ尽くした突然の最後だった。僕の人生に数々のアドバイスをもらい、常に応援してくれていたOさんに、もう絵は見せられない。
手元に中学生時代からいただいた、たくさんの青い万年筆で書きなぐった素晴らしい封筒の束がある。読んで欲しい小説、見た方が良い映画、好きなクルマ、イラストレーターとしての目標。そのときそのときに感じた事を、いつもストレートに書き込み、必ず「ははは」と結んでいたOさんの手紙は、今でも僕の宝物だ。
Oさんの550スパイダーはその後アメリカに渡ったと人づてに聞いた。
とても大切な思いでと、このイラストが手元に残った。


今でも僕は、スポーツカーに恋い焦がれている。