スポーツカーに恋焦がれてTOP

   
2011年5月  
 「ロメオな人々」 2011/5/6

アルファロメオ、この情熱的な響きのイタリアの自動車メーカーには、やはりスポーツカーの匂いが切り離せない。
僕の中のアルファロメオな人々について、話をしたい。
あれは中学生のころだった。雑誌に投稿するようになり、松田コレクションの主催するカーイラストレーションのコンクールでも学生の部の特別賞のような物をいただいたあとだった。いきなり電話がかかってきた。「先輩だけど、今度学校に迎えに行くよ」
突然何も知らない中学生をナンパしたのは、当時30代前半だったSさんだった。学校の放課後に乗り付けたのが真っ赤なアルファロメオ。
当時は1980年代前半、15年ほど前の段付きと呼ばれるアルファロメオジュリアの1300ジュニアと呼ばれる小型のスポーツカーだった。
学校は港区の私立校だったが、そこでもクルマで迎えにくる人は皆無だったし、ましてやそんな古いスポーツカー、なぜか自分がちょっと大人の甘い世界に足を踏み入れたような、ふしぎな気分を覚えている。

段付きと言うのは、1960年代にまだ10代だった若きジウジアーロがひいた線から生まれた彼の最高傑作の小型クーペで、そのボンネットの部分の隙間のデザインからくる愛称である。アルファロメオ好きなら絶対憧れるスポーティーなスタイルにしびれ、乗り込むとエンジンのアイドリングでシフトレバーが震えていたのが印象的だった。
インテリアはちょっと懐かしい古いクルマの匂いがして、タコメーターが上下している。麻布十番辺りの坂道を上り下りしてクルマは小さな工場に滑り込んだ。
そこはアルファ屋さんだったのだろう。古いアルファロメオやエンジンがたくさんあり、Sさんは教えてくれた。 「アルファはエンジンが丈夫だけどクルマが腐ってなくなるからみんな大きなエンジンに載せ変えちゃうんだ」 工場にはいろんな部品がゴロゴロしていて、その場でSさんは段付きのバンパーを外しにかかった。アルファロメオほどバンパーひとつで印象の変わるクルマもない。段付きからバンパーを外すと、バンパーのプラケットにナンバープレートをネジで取り付けて、外観はぐっとレーシーな姿に生まれ変わった。もちろんその工場のおくには、外されたバンパーがゴロゴロしていた。Sさんの段付きは1.3のままだったが、よくサーキットにも遠征して走り回っているクルマだった。

アルファ好きが集まる喫茶店や、古いミニカーを扱うおしゃれな雑貨屋を見て回り、何より車内での自分を大人として扱ってクルマの話を対等にしてくれるSさんがうれしかった。
Sさんはそのうち、足としていたアルファの1750ベルリーナを大柄なレースカーに仕立て、富士や筑波のレースに頻繁に通うようになる。もちろん僕もまだ高校生や予備校生の身で、朝の5時の渋谷や、下手をしたら前の晩のうちに待ち合わせて、ローダーやサポートカーに同乗して早朝のサーキットを目指した。集まるのはアルファロメオに乗る友人たち。
彼らは自分の事を「ロメオ乗り」と呼んでいた。80年代から90年代前半のジュリア系の古いアルファに乗っている、赤いジャンパーを着て女の子が好きで、ピッツアを食べてプラグやジェットの番手、オイルの銘柄に熱くなるのは、決まってこのロメオ乗りだった。
手を油で真っ黒にしながら、横に乗せているお姉さんの腰に手を回す事も忘れない、そんな漫画のような世界が、当時の自分にはまぶしかった。まだ女性とも縁がなく、もちろん免許もない学生に取って禁断の世界が目の前にいつも広がっていた。

レースではピットで応援したり写真を撮ったり、早朝の車検でクルマを押したりしている程度だったが、集まるロータスエランやトライアンフTR4、ジャガーやアルファロメオ、フェアレディSR311にブルーバード510、そしてポルシェ911といったレース仕様のクルマたちは絵を描くうえでも格好のモチーフで、ちょうどそのころSさんの紹介でJCCAというクラシックカーの団体のレースやイベントのプログラムやポスターのイラストを手がけるようになっていた。
美大生になった90年代始めにかけて、ニューイヤーミーティングなどもずいぶんポスターを描いた物だった。
サーキットの轟音やカストロールの甘いオイルの匂い、ヒストリックカーレースの持つ雰囲気にひかれる自分がいた。

アルファはレースではあまり速くなれなかった。車重が重く、どうがんばってみても911やエランに追いつくことは出来ない。ブルーバードの510という古いモデルやフェアレディ2000と言うオープンスポーツがめちゃくちゃ速いのである。
それでも彼らはアルファにこだわって、ロメオを愛していた。タイムを削るために、いつもクルマをいじっていた。
彼らの仲間意識がかっこよく、そこに仲間に入れてもらえる気がしていた自分がそこにいた。
「ロメオ乗り」という今は廃れてしまった言葉に、いまだ僕はロマンを感じてしまうのである。
アルファロメオ、こんなにロマンチックな名前のクルマは、ちょっといない。


 12気筒のオーケストラ 2011/5/13 

茂木のサーキットで、10年前に訪れたネコパブリッシングのヒストリックカーフェスティバルはすごかった。
前に書いた、ポルシェ550スパイダーに乗るOさんの横に乗って夜の茂木のサーキットに到着、それから2日間の宝石のような古いクルマが主役のレースである。
Oさんのピットは、旧知のネコの当時の社長、Sさんと同じピットにあり、Sさんのフェラーリ250SWBの横には松田コレクションのフェラーリ250GTOがずらっと並んでいた。
550スパイダーの横のチェアに座り、振り向くとアルミで出来たコンペティションベルリネッタが向こうまで並んでいるさまは、ものすごい迫力だった。
そのころ、クルマを眺めて写真を撮るだけではなく、目の前にしている気持ちを大切に、その場で水彩で仕上げて行く事に挑んでいた。ものすごい緊張感である。
画用紙を広げて、いつピットから走り出すかわからないクルマを手早く鉛筆でドローイングし、やおら水彩パレットと小さな水の入ったボトルを足下に置く。
絵の具を混ぜ合わせてスケッチブックとパレットを片方の手で押さえ、見えるままに筆を動かして行くのは、この上ない気持ちよさだった。
聞こえてくるのは極上の12気筒の多重奏。耳に心地よく響き渡る贅沢。
絵の具が乾くのももどかしくその場で仕上げて行ったのがこの絵である。じつは、途中まで仕上げたところで横のシャッターが閉められてしまい、光がまったく変わってしまった。それでも記憶をたよりに、根性で仕上げて行ったのである。今なら写真を撮って後で細部の仕上げを考えるところだが、当時の自分には何かその場で真剣勝負をしたい意地があって、サーキットで何枚も絵を仕上げて行ったのである。
知り合いに会うと、その場で絵を見ていただいた。昨年お亡くなりになったいつもニコニコと笑っていたイラストレーターの寿福さんも、カメラをさげた姿で絵を覗き込んでくれた。カーマガジンの表紙を描いているBOWさんは、ロータス47でこのイベントに出場していたのでちらっと見てもらうと「みんな遊びで来てるのに仕事すんなよ」と笑ってくれた。さすがに1日で4-5枚描くとへとへとだったが、あとにも先にも、これだけのクルマが揃ったイベントはなかったので、良い機会だったと今でも思っている。

フェラーリ、この絵に描かれているのは、手前がテスタロッサ。赤い頭と言う意味で、カムカバーが赤く塗られてレーシングエンジンで当時ルマンでも最速だったクルマである。美しいピニンファリーナのボディラインはほんとうに競走馬のような引き締まった筋肉質な塊で、見る者を引き込んで行く。 奥に並ぶのが、世界のフェラーリファンの憧れ、GTOなのだ。テスタロッサのエンジンを奇跡的にバランスがとれたボディに包み込み、60年代前半に無敵を誇ったレーシングカーだ。一番好きなフェラーリは、やはりこの250GTOになるかも知れない。

ブルーと黄色のアルゼンチンカラーに塗られた有名なGTOは、この7年ほど前にフランスのレトロモビルでも色鉛筆でスケッチした思い出深いクルマである。
レトロモビルでも、初めて行った時から小さなスケッチブックにペンと色鉛筆でスケッチをするのが習わしだった。
その奥には有名な薄いグリーンのツーリストトロフィー出場車、そして、奥に赤い少し幅広でルーフの形も変えられた64年式のGTOまで並んでいた。
1台見るだけでも気絶するような貴重なフェラーリがこうも並んでいると、感覚が麻痺してくる。
そして、絞り出すような12気筒のフェラーリミュージックがコンクリートのピットの中で響き渡るさまを想像して欲しい。
これらのGTOは、もう日本から海外に戻ってしまっていると聞く。かの地のイベントでまた元気に走っている姿を想像してしまう。

イベントで飾られているクルマを眺めるよりも、やはりこのようにエンジン音やオイルの薫りに満たされた中で、じっくりと眺め、走り抜ける姿を目に焼き付けるのが好きだ。当時のサーキットは、写真やDVDでしか眺めることは出来ないけれど、こうして時を超えて、その瞬間をその場で追体験出来るのが、この手のイベントの醍醐味である。 もし、その場に足を踏み入れたら、匂いをかいで、耳を澄ませて欲しい。ちょっと目を閉じると、そこにはグッドウッドやルマン、ブランズハッチが目の前に広まっているかもしれない。僕はそんな感覚を絵にしていきたい。



 パルク・サンクルーのアルファロメオ ティーポ33 2011/5/20

もう7-8年前になるだろうか。妻とパリにスケッチ旅行に行ったとき、郊外の友人の家を訪ねた。
場所はパルク・サンクルー。パリの南西の端に位置する、ルイヴィトンのクラシックカーのコンクールデレガンスで有名な広大な芝生の公園である。
昔はここにサーキットがあって、創世記の自動車レースも行われていたモータースポーツゆかりの地でもある。
友人はルノーキャトルに乗っていたつながりで知り合った日本女性で、その後単身フランスに渡ってフランス語を勉強し、こちらでフランス人のお相手をみつけて結婚、さらにルノーでセクレタリーとして働くキャリアウーマンとなった。
彼女の家でご主人とお酒を飲みながらランチをしてゆっくりとしていたら、「なんか、今日クルマのショーがあるみたい」と言うではないか。
よく聞くと、それがこの広大な公園で繰り広げられる当時あった「オートモビルヒストリック」と言う雑誌主催のイベントであった。
ケーキを食べてお酒を飲んでいる彼らを見てやきもきしていたが、やっと腰を上げて公園に向かったのはもう3時過ぎだっただろうか。
あまりに広い公園を横切るのに20分以上かかり、入り口をみつけるとチケットブースで「もうすぐ終わりだよ」と告げられて青くなった。
チケット代をおまけしてもらって会場に入ると、ルノーのブースには馬車のようなクラシックカーからターボF1、ラニョッティのサンクターボマキシまでひしめき、ポルシェのテントには薄黄色の904やシルバーにマルティニラインの917K、カレラパナメリカーナの550スパイダーやカレラ10など貴重品がずらり。
さらにミニサーキットまであってヒルクライムのような物も先ほどまで行われていたらしい。僕は小さなカメラでひたすら写真を撮りながら会場を見て回って行く。
そこには大好きなマトラ・ジェットやルネボネ・ジェットのジェットクラブの一団がいるではないか。ジェットは世界初のミッドシップのスポーツカーで、アルピーヌによく似た愛くるしいフレンチスポーツに目が釘付けになる。
緑の芝生の上に佇むジャガーのCタイプやアストンマーチンDB2など、イギリス系のスポーツカーが多く、ロータスエランも小動物のようにうずくまり、横をさっと女性が通り過ぎるさまは本当に静かな絵画の世界であった。
もちろん使い込まれたブガッティも芝生の上に多数、何とも贅沢な風景である。
もう帰り支度を始めているクルマも多く、ローダーに乗っているのはフェラーリの365BBのルマン仕様、カーナンバー75のNARTのクルマそのもの。どこを見て良いのかほとんどパニックになりながらひたすらカメラのシャッターを切って行く。
デイトナコブラもそんな中で芝生に普通に並んでいて、まわりの景色とのギャップに驚く。まわりに人が群がる事もなく、皆静かに話をしながらクルマを眺めているのが印象的だった。
大人のイベントである事を実感し、ふと木立の向こうに目をやると、そこに信じられないレーシングカーがいるではないか。
こんもりとした林の奥に、背の低い赤いアルファロメオ、純レーシングカーのティーポ33であった。アルファロメオがフェラーリやポルシェに対抗してスポーツカーレースに送り込んだティーポ33に、こんな芝生の上で出会うとは思っていないので、時間が止まっているかのような錯覚を覚え、近づくとエンジンに日が入り、V8のアルファサウンドが響いている。ルマンやデイトナで活躍したアルファロメオにパリで出会うとは。もうイベントも終わり。そんなときに神様がくれたプレゼント。

レーシングカーはサーキットで生き生きと見える物だが、芝生の森の中で見るサラブレッドたちには、動物が水を飲みに木立に佇み、英気を養っているかのごとき瑞々しさがあふれていた。間もなく三々五々とイベントの出場車は会場をあとにして行き、出口でそれらを見届ける僕は、満足感でいっぱいだった。

日本からお金を貯めて一直線にイベントを目指す弾丸ツアーももちろん素敵だけど、ランチのあとに偶然発見するイベントもパリらしい。そんなパリのイベントに連れて行ってくれた彼女たちに感謝をした。偶然って、とっても素敵じゃないか。


 「テキサスの白い怪鳥」 2011/5/27 

60年代スポーツカーレースを知る、一定以上の年齢のスポーツカーマニアの心に深く刻まれているレーシングカーと言えば、やはりこのシャパラルにとどめを刺すだろう。
テキサスミッドランドの石油資本の大富豪、若きジム・ホールとその相棒のハッブ・シャープによるアメリカンレーサーは、その純白の白い衣装とともに世界中のスポーツカーを相手に戦った。
キワもの扱いされ、新しいアイデアは時にレギュレーションに拒絶され辛酸をなめるが、そのひらめきの正しさは歴史が証明するところとなる。
可変式のフリッパー、オートマチックトランスミッション、メッシュデザインのホイール、模型会社とのコラボレーション、そして、小型エンジンによる強制ダウンフォースと言う概念まで。
シャパラルの甘い響きは、その孤高さからくるロマンティックな物だ。フォードやフェラーリがその物量で全面対決していた60年代後半、たった1-2台のレーシングカーをヨーロッパラウンドに持ち込み、GMのバックアップはあった物の、あくまで彼らの流儀で勝利をもぎ取った。
アメリカのUSRRCシリーズでの活躍も心躍る物で、今ではすばらしいYOUTUBEのおかげで、当時のリアルな戦いをカラー映像で眺めることが出来る。ナッソー、モンテレー、セブリング。若く美しい妻がピットで出迎え、ホールとシャープは勝利の美酒に酔いしれる。


このようなシャパラルに触れるなら、やはり当時のアメリカの雑誌とプラモデルが良いだろう。
こちらの雑誌は古いロード&トラックとカー&ドライバー。シャパラルは無敵だったので大きく表紙にも取り上げられ、興味深いメカニズムにも多くのページが割かれている。そのざらっとした印刷とともに、60年代そのものの薫りが立ち上がる雑誌は、ページをめくるごとに僕を当時のサーキットへと旅立たせてくれる。

そしてそのシャパラルの横腹には,いつも赤いマークが輝いていた。COX。この響きにうっとりする50代以上の模型マニアは数しれない。
スロットレーシングという、レールの上をコントロールして走らせる遊びは60年代に大ブームとなり、日本でもそこら中にサーキットがオープンして、おしゃれな大人とそれに憧れる子供たちのたまり場となった。ちょっとワルの匂いのする大人の社交場は教育ママの標的となり、スロット自体も急速にスピード偏重となってブームは終わりを迎えるのだが、その単純かつ心躍る奥の深い楽しみは、今もスロットオヤジたちに受け継がれている。
彼らの間にCOXは神格化されていまだ伝説となっているのだ。
こちらの絵の中のCOXの箱は、今から20年以上前、恵比寿にあったミスタークラフトと言う模型ショップで突如売り出された60年代のデッドストックプラモデル。
まさにタイムマシンのようなちょっとこもった薫りのするボール紙の箱を開けると、あのスロットボディのシャパラルが、ごろんとプラモデルとして転がっていた。
ナッソーで優勝したホールの3番のシャパラル2A。パッケージにはもちろんジム・ホールの姿と、ブループリントから作られたと言う誇らしいキャッチコピーがある。
手前の65番はやはり当時のスロットモデルのプラモデル版で、60年代に品質で神話化されたモノグラムの再販製品である。こちらはシャパラル2D。このような古いプラモデルを、当時のままの箱や説明図とともに復刻するのはアメリカの模型メーカーの得意とするところで、模型を文化として伝えて行こうと言う心意気に、心底共感を覚えるのである。

プラモデルはピカピカに作る事だけが最終目標ではない。当時の走りに思いを馳せ、その写真やパッケージから広がるイメージを手のひらの上のモデルにどう投影して行くか。大人が夢中になるその遊びは、どこか遠い昔、公園で広げた駄菓子屋のプラモデルを組み立てるわくわくにつながるものがある。
遠い記憶。どこかせつない蜃気楼のようなイメージは、いつも頭の中のどこかに広がっている。そこに手を伸ばし色とかたちを与えていくことは、なんと素敵な事だろうか。