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「ルマンの王者、GT40マーク2」 |
2012/2/3 |
誰もが知るフォードGTといっても、その種類は様々だ。
1964年、英国主導で開発されたローラを母体とする初期型のGT40は、細身のボディにワイヤーホイール、60年代前半のファッションで、白いボディに濃紺のボンネットがシンプルな、繊細なスタイリングであった。
しかし、一発の速さは見せるものの結果を残せない(主にフォードV8の大パワーにコロッティのギヤボックスが悲鳴を上げてのトラブルが続出した)GT40に本国ディアボーンはしびれを切らし、そこに登場するのが当時コブラで快進撃を続けていた優勝請負人、キャロル・シェルビーその人だった。シェルビーはアキレス腱のギヤボックス内部の部品をより強固なフォード製に交換、ワイヤーホイールもハリブラントへ、タイヤもダンロップから幅広のブルーストリークへと変更になり、ここに純アメリカンスポーツ、GT40が誕生するのである。
1965年開幕戦デイトナビーチまでの約8週間にすべての変更、開発を成し遂げたシェルビー・アメリカンは、2台のフォードGTをデイトナコブラとともにエントリー。マイルズ/ルビーとボンデュラント/シュレッサーのGT40が総合で1位と3位、2位と4位もデイトナコブラと言うまさに完全勝利でヘンリー・フォード2世の期待に応えることとなる。
もちろん大フォードの次なる野望はルマン制覇に他ならない。その年に試験的に送り込んだビッグブロック7リッターのGT40を加え6台のエントリーは、しかしまたもや全滅、ここに、このマーク2の開発が加速していくこととなる。
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66年、運命の年は始まる。
よりグラマラスに変身を遂げたマーク2は、誰もが知るおなじみの姿へと完成していく。ファットなリヤフェンダー、大迫力のアピアランスはこけおどしではなく、7リッターのエンジンと、より耐久性に重きを置かれたブラッシュアップにより、確実な競争力を身につけていた。
そして開幕戦のデイトナ24時間、シェルビー・アメリカンの3台とホルマン&ムーディーの2台がエントリーし、シャパラルやフェラーリの脱落にも助けられながら、5台中4台が24時間を走りきり、またもマイルズ/ルビー組が優勝、2位、3位、5位もGT40が占める大金星を挙げる。
そしてセブリングもオープン仕様のX-1で手に入れ、本番、ルマン24時間レースを迎えるのだ。
そこに集結したGT40は、8台の7リッターマーク2と5台の4.7リッターGT40。レースは圧倒的にフォードのペースで展開され、宿敵フェラーリのP3になす術は無かった。
トラブルで5台のマーク2を失ったものの、3台のマーク2が24時間の長丁場を走りきり、歴史的な3台並んでのフィニッシュライン通過、マクラーレン/エイモンの勝利で幕を閉じることとなる。
その年のルマンの色とりどりのマーク2は、どれも魅力的なカラーリングだが、このイラストのGT40マーク2は、ホルマン&ムーディーからエントリーされた、マリオ・アンドレッティ/ルシアン・ビアンキのクルマである。
GT40らしいブルーメタリックに白い2本のルマンストライプ、歌舞伎の隈取りのような黄色いヘッドライトまわりのラインは、ポルシェチームなどもよく採用した識別ラインで、予選時に黒いマクラーレンのマーク2と見間違えたことにより追加されたものである。
6時間目にリタイヤしているが、そのカラーリングに惚れてフジミのプラモデルをこの仕様で完成させたことがある。
GT40マーク2はやがてその役目を終え、より競争力のあるマーク4へとがらっと形を変え67年ルマンでの完全アメリカン勝利を遂げ、さらにレギュレーションのあやから、かつての4.7リッターGT40が復活し、ガルフカラーでさらに68年、69年と2度のルマン勝利を重ねていくのは、誰もが知る栄光の歴史だろう。
かつて僕は、初期型のシンプルなワイヤーホイールタイプや、4.7リッターのGT40マーク1を好ましく思っていたのに、この7リッターのマーク2に釘付けになったのには訳があった。
2010年、喜び勇んで駆けつけた憧れの地、ルマン、サルテサーキットで、大量のGT40の速さと格好よさにしびれノックアウトされた僕は、そこでボディカウルを外され整備される金色のホルマン&ムーディーのマーク2を目にすることとなる。
ちょうど、その少し前に1/12の巨大なフォードGT40マーク2のプラモデルを、夢中になって組み立てたこともあり、頭に記憶がはっきりと残るエンジンレイアウトと足まわりが目の前に展開され、まわりに多くいた4.7リッターモデルとは全く異なる大迫力の存在感に、僕は見惚れ、ひたすらシャッターを切った。
そしてレースが始まると、7リッターのサウンドと迫力は素晴らしく、王者のような風格を漂わせていた。
どのGT40が好きかと聞かれても、今の僕は答えに困ることとなる。どれもが魅力的で、その裏には勝利への夢と執念を重ねたストーリーがある。
もちろんこのマーク2も、僕にとって大好きなスポ−ツカーに他ならない。ルマンをもぎ取るための野望が形になった重戦車のようなGT40、その姿は忘れられない。
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「美しきヴィーナス、フェラーリ250GTO」 |
2012/2/10 |
どのフェラーリが好きかとの問いに瞬時に答えるのは難しい。
250SWBのまろやかな姿や、ツール・ド・フランスのノーブルな雰囲気の166のベルリネッタ仕様は素晴らしい。750モンツァや500TR、375プラスも魅力的。もちろんLMやP4、512Mどれもため息が出るばかりの美しさで、多くを目のあたりにした今もその神々しさはどれも甲乙つけがたい。
でも、最後の1台として持って帰りたい車はと聞かれれば、多くの人がこのGTOを名指しするだろう。
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長い鼻先にコロンボV12、3リッターテスタロッサエンジンを積み込み、アルミのスキンにボラーニをきらめかせ、戦闘的なフォルムは誰もが頭に描くスポーツカーのフォルムそのものだ。
小さな口から一気にライトユニットにスムーズに面が連続し、両フェンダーとボンネットの三つのこぶが力強いフロントラインを形作る。フロントウィンドウは意外に平面的で立ち上がった形状であり、リヤフェンダーが筋肉質な塊で前進へのエネルギーを満ちあふれさせる。
初期のプロトタイプには無かったテールエンドのスポイラーが絶妙なアクセントとなり、勢いに乗った形をすとんと収束させる。ノーズやフェンダーにあけられた開口部、タイヤと全体のバランス、そこには全フェラーリのアイコンとなるべき素晴らしき造形感覚が見て取れる。
しかもこの車は純粋なレーシングカーとして開発され、表立ったスタイリストの存在は明かされていない。その頃のピニンファリーナのフェラーリとの共通性はあるものの、空気を切り裂くその形状は現場の要求と職人の美的バランスから形作られたものなのだろう。
このGTOのことは何回か書かせてもらっているけれど、いくら言葉を並べてみても、その存在の奥の方まではたどり着けないもどかしさがある。
80年代に復活タルガ・フローリオが始まったとき、夜中に放映されていたカーグラィックTVにかじりついた。
まだYOUTUBEはおろか、パソコンさえ世の中にほとんどなかった時代に、初めて動くGTOを目にすることができたのだ。
荒いモノクロ写真や、わずかばかりのカラー写真で眺めることができたシシリーの乾いた風景の中、テールをぐっと沈み込ませメカニカルなV12ユニットのむせび泣くようなフェラーリサウンドをこだまさせてコーナーを抜けていく姿に、まだ高校生の僕は胸をときめかせ、他のアバルトやフルビア、ポルシェやロータスと言ったマシンの挙動とともに胸に焼き付けた。
情報が無いその時代、テレビのスタッフも上気し笑顔がこぼれ、その感極まった興奮が画面からも伝わってくる。
僕はカーグラフィックの広告を見て、恵比寿のミスタークラフトに出向いて高価なVHSテープを手に入れた。GTOの出てくるシーンを何度も繰り返し巻き戻し、GTOが特集されたビデオマガジンも手に入れる。
あの頃は、このようなVHSテープが動いている車を見ることができる貴重な機会であり、たまに何の拍子かNHKで放映された海外のドキュメンタリー映像で、復活ツール・ド・フランスの様子が流され疾走するシルバーのGTOを見て卒倒しそうな衝撃を受けたのも想い出深い。
情報が溢れ、映像が溢れ、インターネットを検索すればどのような時代の貴重なフィルムも覗くことができる。昨今、50年代のレースのカラー映像やストックカーのカラーフィルム、ナッソーやセブリングの貴重な記録フィルムが毎日新たにインターネットにアップされる。このころの映像に飢えていたドキドキ感は今の人たちにはわからないかもしれない。
雑誌の小さな写真がすべてであり、本屋で洋書を手にしてレジにいくか本気で迷い、模型屋でミニカーやプラモデルを手にしてどれを小遣いでまかなうか何度も逡巡する。その時の手触りやお店の空気、大人の世界に迷い込んで右も左も分からない高校生の僕は、今にして思えばとても貴重な体験を直に感じ取っていたと思うのである。ネットですべて比較して、少しでも条件の良いものをクリックして手に入れる時代とどちらが幸せなのだろうか。
そして、GTOの本物に出会うのはバブルのあとのヒストリックカーレースだった。一気に4台のGTOに対面した僕は、平常心を無くしていた。興奮しながらも、どこかで今まで見た記憶の中のGTOのディテールを目の前の実車と確認していたような記憶がある。
あまりにも好きになってしまった彼女との逢瀬を、頭の中で夢の中で何度もイメージして手触りさえ繰り返し想像の世界で完結させてしまった時、実際に目にして言葉をしゃべろうとすると案外ぶっきらぼうになってしまうことがあるかもしれない。
イメージの中で翼を羽ばたかせているとき、人は自由になれる。その自由さは決して失いたくない。
実際にリアルに触れることで、さらにそこから自由に羽ばたけるようにしていきたい。願わくは、グッドウッド・リバイバルのような聖地で、本気でバトルするGTOの姿を見て体中に電流が走る体験をしてみたいものである。
美しきヴィーナスの戦いの姿をこの目で。
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「スロットレーシングを知っていますか?」 |
2012/2/17 |
1960年代、日本にモータースポーツの芽が出始めた頃にアメリカから突如入ってきて大ブームを巻き起こしたのが、レールに模型の車を走らせる遊び、スロットレーシングだった。
正確にはスロット(溝)が切られたサーキットにシャーシのガイドをはさみ、コントローラーを握ることで電圧を調整して、コース上から飛び出さないようにスピードを競うクルマの遊びである。
当時は本物のモータースポーツに興じるプロのレーサーが集まり、ビリヤード場やボーリング場等ちょっと不良の匂いがする大人の社交場でブームが始まった。やがて模型少年たちも高価なキットを、お年玉を握りしめて購入し、タミヤの参入でブームは一気に加速する。やがて、全国の子供たちがそれぞれの街に出来たスロットサーキットに通うようになっていく。 |
当時の本物のレースは、ドライバーがスターとなり一般紙のグラビアを飾るほどの人気があったこともあり、今とは違った社会的なブームだったのである。勢いスロットレーシングもブームは加熱していき、サーキットのコース上のマシンのほとんどをタミヤが占めるまでとなり、サーキットを不良のたまり場と見るPTAからも横やりが入るようになる。そしてスピードのみを追い求めスケール感を無視したマシン、クリヤボディやウィングカーの台頭で急速にブームはしぼみ、あとには模型メーカーの倒産と不良在庫の山が残ることとなる。
しかし、あのブームを経験した元子供たちの熱意は決して消えることは無く、そのあとも何度かスロットレーシングは一部マニアの間で盛り上がることとなるのである。
僕も昔から存在は知っていて、25年ほど前のモデルカーズと言う模型雑誌ではその車たちに強い憧れを持っていた。当時通っていたミスタークラフトでは3階にスロットサーキットがあり、そこは文字通り大人の社交場となっていたようであった。高校生だった僕はその場に足を踏み入れる勇気もなく、たまにスロットカーの白黒のニュースペーパーのような物を握りしめ、その当時もお宝であったスロットキットたちの荒い写真を穴があくまで眺めていたことも懐かしい。
20年ほど前、日暮里のモデナでは60年代のブームを知るような大人たちが、プラモデルを大改造、キットが無い車はゼロからフルスクラッチをして、カンナムや日本グランプリ、ルマンと言ったクルマたちを信じられないほどのディテールまで作り込み、そのマシンでがんがんレースをしていると言うのを知って雑誌の写真で夢の世界を思い描いた物だった。
そして自分も大人になった15年ほど前、さかつうやミスタークラフトのマイショップと言うショーケース等で気に入ったオールドスロットを見ると買い集めていたある日、ミスタークラフトの個人売買のマイショップで大きなダンボール箱を目にしたのだ。埃っぽい段ボールを覗き込むと、そこには黒いプラスティック製のコースが山のように入っており、コントローラーや変圧器、そしてうれしいことに1/32の英国製スロットカーが2台入っているのを確認できた。
グリーンのボディに黄色いラインが入ったロータスコルチナ、そして白いミニクーパー。どちらも古いエアフィックスのボディをベースにしたMRRCと言うメーカーの旧い車だった。宅配便を依頼して会計をすませると、僕は大きな荷物の到着を心待ちにした。
パリのレトロモビルでも古いスロットを手に入れていたこともあり、届いた大きな荷物をコースの形に組み上げ、その頃ブームになり始めた1/32スロットカーの完成品も買い集め、家でのレースが始まるのだ。
コースを走るのは古い2台のMRRCのコルチナとミニを始め、当時出た同じMRRCのコブラやシャパラル、パリで買ったSRTのアルピーヌ、スケーレックスのロータスセブンなど、それぞれが走りに特徴があり8畳の部屋のベッドのまわりいっぱいに敷き詰めたコースで僕はクルマの走りを存分に楽しんだ。
クルマによってはうまく走らず、分解したりガイドを削ったり苦労した物だ。
当時は一緒に遊ぶ仲間がいなかったこともあり、一人でスロットを楽しむというのにやがて飽きていき、コースは長くしまい込まれることとなる。
ひょんなことからスロットの世界に引きずり込まれたのは最近のことである。知り合いから横浜のスロットのサーキットに呼ばれるようになった。そこで目にしたのは、今まで夢に描いていたオールドスロットや作り込んだ自作スロットカーに興じる大人たちの世界だった。月に一度のスロットミーティングがあり、あの頃の憧れのクルマたちを思う存分この目で見ることができる。
自分も少し大人になったのかもしれない。やがて僕もクルマをサーキットで走らせるようになり、その泥沼へずぶずぶと足を入れているところである。気に入ったオールドカーたちをサーキットに並べ、電圧を低くしたコースで実車の雰囲気を楽しめるスピードで思いっきり走らせ、顔をコースに近づけてコントローラーを握るドキドキは何にも代え難い。
そして先日、実家に置いてあった埃っぽいコースをついに部屋にも持ち込んでみた。10年振りくらいに広げたコースでは、いくつかのクルマをまだ走らせることができたのだった。
今そこで走らせるのは僕と子供たちだ。古い車は古いなりに、調子の良いクルマは思いっきり、子供はサーキットに顔を近づけて飽きること無くコントローラーを握りしめている。かちかちに固まってしまったタイヤはこんど新品に交換してもらおう。
子供が幼稚園から帰ってくると、バッグを放り出して叫ぶ。
「レースしようよ!」
僕も大人になった。コントローラーを握りしめると、子供と一緒になってスロットカーにはまっていく。
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「12気筒の怪物、ガルフポルシェ917K」 |
2012/2/24 |
このイラストを見てあのスティーブ・マックィーンを思い出す方も多いだろう。
「栄光のルマン」
興行的には大失敗作であったけれど、マックィーンのレースへのこだわりと情熱、美意識に支配された一大レース映画であった。 |
1970年、まだルマンが光り輝き雑誌の写真からしか情報を得ることがかなわなかった時代において、音が出て大画面を走り回るマシンたちを存分に楽しめるだけで衝撃があっただろう。
テレビの画面で見てもその時代のひりひりした死と隣り合わせのレーサーの世界の孤独と狂気、画面の隅々まで目を凝らして各チームのマシン(もちろんハリボテのクルマもあるが)当時の人々や駐車しているクルマ、警官や子供たち、女性を見ているだけでわくわくしてくる。
これが大画面大音響であったならと思わずにはいられない世界で、画面の中央を走り回るのがこのガルフカラーの917Kだった。
ポルシェはそれまで904や906で小排気量クラスに挑戦し、やがてレギュレーションの変更により908でトップ争いに挑むようになる。69年のルマンでは908があのガルフ(!)GT40と死闘を演じ、あと一歩で総合優勝を狙えるところまで来ていた。
69年の時点では未成熟だった4.5リッター12気筒の怪物917も、1970年になると名将ジョン・ワイヤ(前年の宿敵である)の手で煮詰められ、ばっさりと後端を切り落とされたミニスカート仕様のクルツ(短い)ルックで917Kと言う名称に改められ、各部の信頼性も徹底的に磨き上げられる。
戦う術を知っていたワイヤのガルフチームは、シフェールとロドリゲスの2台体制で開幕のデイトナに臨み、ロドリゲスの勝利、ワンツーフィニッシュというこれ以上にないスタートを切る。そして第3戦のBOACでも雨の中で鬼気迫るドライビングを見せたロドリゲスの2勝目。この時の走りはYOUTUBEでも見ることができるが、巨大な917をヘビーウェットの中でパワースライドさせながら、ラテンのダンスを踊るようにコントロールするペドロ・ロドリゲスのスタイルに声も出ない。
続くモンツアでもロドリゲスが3勝目、そしてスパでは今や最大のライバルでありチームメイトのシフェールが1勝をあげる。
そして運命のルマン24時間レース、ロングテールのLH仕様を加えた7台の917で臨んだポルシェチームは、11台の512Sとの戦いに臨む。
ここでロドリゲスは開始後1時間で早くもリタイヤ。ヘイルウッドも3時間でリタイヤを喫し、残るシフェールも夜中の2時に首位を走行中に痛恨のシフトミスでリタイヤとなる。
全滅したガルフチームと総崩れのフェラーリチームを尻目に、堅実な走りを見せたザルツブルグチームの赤い917Kがポルシェに初のルマン総合優勝をプレゼントする。
続くワトキンスグレンは、やはりガルフチーム内の対決となりロドリゲスが4勝目、2位にはシフェールが入る。そして締めのオーストリアではシフェールが勝利、この年917は10戦中7勝、そのうち6勝をガルフの917が独占するという快挙を成し遂げた。
翌71年にはこのイラストのように垂直尾翼がそびえ立ち、また大活躍を演じることとなる。
無敵のガルフカラーの917の姿は、映画の名シーンとともに人々の胸に強く焼き付けられている。
この917の走りをこの目で見たのが2010年のルマンクラシックだった。
そこでは2台のガルフカラーの917が輝いており、その周囲を威圧する存在感、堂々とした姿形に僕はたじろいだ。
パドックの一角では映画を彩ったクルマたちの展示があり、カメラカーや撮影用のセット小道具等に囲まれて、磨き上げられた917が佇んでいる。
そして66年から71年のクルマが集まるパドック内ではもう1台のガルフ917が整備されていた。
たくさんの512Mや複数のアルファロメオティーポ33、ローラT70、フェラーリP3/4、フォードGT40、ホーメットTXといった憧れのクルマたちの中でも、王者の風格と完成された物が持つオーラに圧倒された。
ドライバーはアトウッドとシュッパン。往年のドライバーが乗り込んだ917はかなりのペースで周回を重ねる。どれも宝石のようなクルマたちの中で、ガルフカラーはやはり特別の彩りを加えていた。聖地に来たことで僕は夢のような体験が出来た。
ガルフカラーの917、手元に1台のミニカーがある。フランスソリッド製の917は70年代のミニカーだろう。リヤゲートを持ち上げると、FRPを表現した半透明のエンジン吸気部分のモールドとメッキのエンジンモールド、そして黒のフレームモールドが混ざり合い、独特の凄みを小さなミニカーに与えているのがわかる。
カーナンバー2はデイトナで優勝を飾ったロドリゲスのマシンだろう。このミニカーの最初のオーナーによって実車どおりにホイールが黒く塗られていて存在感を増している。
小さなミニカーの中に、ポルシェチームの栄光とガルフの自信、そして917への子供たちの憧れが混ざり合い、僕の手の中で光り輝いている。
棚の上からミニカーを取り出しほこりを払ってあげるとき、僕の中でミニカーの12気筒エンジンに火が入る。気分はペドロ・ロドリゲス。
雨の中でダンスを踊るような小柄なメキシカンを思い描き、僕はスケッチブックに向かうのである。
僕にとってのミニカーは、そんな存在なのだ。
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