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2012年12月  
 「雨上がりのキャトレール」 2012/12/7
12月だと言うのによく雨が降る気がする。
めっきりと冷えこみ、重く曇ってしとしとと雨が降る週末、気が重くなる人も多いだろう。
12月はからっと晴れて乾燥する日が続く、というのも最近では当てはまらないのだろうか。

うちのキャトルも、雨が降っているときにこどもの送り迎えに活躍したりするが、そのとき困るのが窓ガラスの曇りである。
走り出すと前後左右に12枚(!)ある窓ガラスがすべて曇ってしまい、雨の降る夜など危なくて乗る気にならない。
でも雨上がりのクルマの景色ほど絵になるものも無い。
路面がきらきらと輝いて、雲の隙間から日差しが出てくる瞬間、雨粒に濡れたクルマのボディは艶かしい表情を魅せてくれる。

この黒いキャトレールを見てほしい。ルノーキャトル、もう生まれてから51年を経過するフランスの大衆車をフランスでは初期型の愛称4Lにかけて、愛情を込めてキャトレールと呼ぶ。
パリから特急で2、3時間ほどはなれた小さな街、トネルのことは以前書いたが、15年ほど前、写真家のNさんと訪ねたこのほとんど1時間ほど歩くとすべてを見ることができそうな街の中で、雨上がりにみつけたのが黒い初期型キャトレールだった。
そのとき泊まっていたホテルの脇道を散歩しているとき、ふと視線の中に入ってきたのがこちらのキャトル。
顔つきが珍しい1965年頃のクルマで、状態もよく黒いボディに空が映り込んで、雨が美しい艶をボディに与えていた。
パリの街で数えきれないほどの旧いルノーキャトルを、ルノー100周年のイベントで見てきたあとだったけれど、イベントのさなかではなく、街の片隅で偶然見かける生活感の漂うクルマに、僕たちは興奮した。
白い壁の前で、水たまりに囲まれてしっとりと佇む姿を何枚もカメラに収め、僕とNさんはニコニコと笑っていた。
何枚も撮影した写真はアルバムに入っていて、たまに開いてみる事でそのときの雨上がりの空気を思い出させてくれる。
旅に出ると思ってもいない風景に驚かされる。とくに旧い車がいる風景は、そのときその瞬間にしか出会えないものがあって、あまりにぴったりとしたシチュエーションにうれしくなる事が多い。

そんな旅が出来た15年ほど前、まだ自由になる時間も、そして使えるお金も余裕があったその頃に、僕は友人たちといろいろな地を散歩した。
これまでの20年ほど、たくさんの旅を経験しておいた事が、僕の中の記憶の引き出しの数を増やしてくれた。
人生には旅の適齢期があって、旅が出来る時間、そしてそれを吸収できる自分の自由さ、家族との関係も含めて、出かけなければならない時があるように思う。
お金がないとき、ただひたすらに安い宿に友人3人で一部屋に3週間ほど泊まり、パリの片隅を拠点に毎日ぶらぶらと当てもなく街をさまよっていたのを思い出す。
そんな経験があったから、僕にとってパリと言う街が見せる一こま一こまが行くたびごとに輝きを見せてくれるのだろう。
2月の凍てつくパリで暖かいものを求めて、毎日オムレツやクロックムッシュをほおばっていたのも懐かしい。
オムレツジャンボン(ハム)やオムレツフロマージュ(チーズ)、オムレツミクスト(全部のせ)。熱々のとろりとしたオムレツにバゲットやポテトがついたそれは、歩き疲れた僕らにはうれしく、暖かいカフェオレなどで旅の疲れをいやしてまた午後からの散歩に繰り出していくのだった。
寒いパリでは、朝は8時頃まで暗いので、翌朝の日の出を目指してサクレクールのあたりをうろついたのも懐かしい。
モンマルトルの裏路地には当時旧い車が溢れていて、坂道にごしゃっと路上駐車されたクルマに8時頃の遅い朝日が真横から当たる風景が大好きだった。
旧いキャトル、へこんだシトロエンDS、やつれたシトロエン2CV。生活感に溢れた彼らをみつける事がうれしくて、坂道で何度も上り下りを繰り返した日々、今あの街にさまよいこんでも、もう旧い車に出会う事は希になった。
イエローバルブがゆらゆらと揺れたパリの夕暮れ、あのロマンチックで排ガス臭い大通りの風景も、記憶の中を探さなければ出会う事は出来ない。

このクリスマスに向けて、旅に出る人も多い事だろう。冬のヨーロッパ、暖かい南の島、その地でしか出会えない奇跡の風景を求めて、ただひたすら散歩すると言うのはどうだろう。
もちろん観光地や有名な教会もいいけれど、名も無いカフェの前にふと停まっているヴェスパを眺めるだけで、僕は幸せになることができる。
スーパーの前に停められた自転車や買い物袋を下げたおばさんの後ろ姿に、ふとシャッターを向けたくなるかもしれない。
蚤の市を覗いたとき素敵な宝物に出会う確率も、けっこう高いものである。
街の宝物に出会うたびは、人生の中での宝探しに似ている。
出会うためにはアンテナを働かせ、自分から前へ動いてみる事だろう。
次の旅へ。人生は旅なのだから。


 「クリスマスを前に」 2012/12/14
すっかり年の瀬も近づき、街のイルミネーションはクリスマスの季節の到来を告げている。
空気は冷たく、道行く人もコートの襟を立てて足早に通り過ぎる。
サンタクロースを楽しみにしていたのはいつ頃までだっただろうか。
大きなプラモデルの箱を抱えて父が帰ってきたのは小学生の頃だったか。あれは1/12のプラモデルで小学生の頃出たばかりのタミヤのポルシェ934を買ってきてくれたのだった。
喜び勇んで初めてオレンジの缶スプレーでボディを塗装して、細かいところまで筆塗りで塗り分けていったのが懐かしい。
青い大きな箱に入ったメルクリンの蒸気機関車のセットには、オペルのクルマを乗せた貨車がついていたのを思い出す。あれは古いカデットだったのだろうか。
青いパワーパックの赤いつまみをまわすと、機関車はじゃーっと言う音を立てて走り出し、いったん停めて反対側につまみを戻すとじーっと言う音を立ててまたつまみをまわすと今度はバックで走り出す。
そのじーっと言う音が好きで、何度も前身と後退を繰り返していた。砂利のでこぼこがついたひんやりと冷たい鉄のレールが、子供心にうれしかった。
プラレールではなく、すべてがひんやりと冷たく重いHOスケールの模型は、こどもには贅沢すぎるものだったと思うけれど、僕には本物そのものに思えた。

年に一度のクリスマス、それまで見た事もないおもちゃを会社から大きな包みをもって帰ってくる父の姿がうれしくて、僕たちこどもはその日は遅くまで起きていた。
そういえば、駅のショッピングセンターで買ってもらったのが、サイボーグ1号と言う透明な素材の男の子向け着せ替え人形で、あたまにかぶせるパーツやビニール製の服が別売りされていて、僕が選んだのは当時大好きだったキカイダーだった。
本当は売り場でウルトラセブンと本気で迷って、あとになってずっとウルトラセブンが欲しくなったのは父には言えなかった。
そんなに多くのおもちゃを買ってもらった訳ではなかったけれど、あの頃買ってもらったおもちゃは今でも記憶に残っている。
クリスマス前に届く大きなちらしで隅から隅までおもちゃをチェックしていた事も懐かしい。
野球盤やボーリングゲーム、ゴルフゲーム、人生ゲームの写真の横にはいつもビッグレーシングと言うこども向けスロットレーシングセットがあった。
子供心にそのレールの上を走らせるクルマにいつも憧れをもっていた。
なぜかスロットレーシングセットは買ってもらう事はなく、やがてタミヤからラジコンが出てはじめてポルシェ935を買ってもらったのだ。
近所の広めの駐車場にラジコンの935を抱えて行き、停めてあるクルマの脇をすり抜けて20分ほども走らせると、やがて電池が切れてその日は終了。
たった1台、ほとんど一人で走らせていた記憶があるのでそのうち飽きてしまい、ラジコンはその1台きりで終わりとなる。
弟はラジコンのバギーを始めてずいぶん改造したり走らせたり、楽しんでいたようである。

僕にとっては、やはり一番の楽しみはプラモデルだった。
クリスマスに買ってもらえる大滝あたりの1/12プラモデルは、タミヤほど難しくもなくただ大きいだけのようなモデルだったけれど、コルベットやムスタング、ジャガー・ピラーナ等と言う不思議なラインナップを手にしていたのを思い出す。
普段買えるのは1/24かせいぜい1/20までのプラモデルで、大きな箱はお店の上の方に陳列してあって、普段中身なんか見られなかった。
買ってもらったプラモデルは果たして自分が指定したのか、父の趣味も入っていたのか?
まだ幼稚園ぐらいの頃、父は戦前のクラシックカーの大きなプラモデルを作ってサイドボードの上に飾っていた。もちろんこどもの僕はそれが触ってはいけないものだと言う認識はなく、あちこち触って壊してしまった。
黄色と黒の幌がついた長いボディのクラシックカー、父はがっかりしたと思うのだけど、父に怒られた記憶はなかった。
買ってもらったウルトラセブンのウルトラ警備隊のポインターのプラモデルや、マッハ号のプラモデルも父に頼んで作ってもらった。
そうやって父がこどものために、こどもと一緒に作ってくれたプラモデルは、ずっと記憶に残っている。
やがてクリスマスにサンタクロースが来なくなったのは、いつ頃だっただろうか。

今年、4歳の息子と7歳の娘に、クリスマスのプレゼントを用意して棚の上に隠してある。
娘は本、そして息子にはカーズの簡単な組みたてプラモデル。
息子はいつも僕がプラモデルを組みたてるのを見ていて、一度作ってみたいと言うようになった。
確かに僕は幼稚園の頃から駄菓子屋に行って、プラモデルを買っては公園でぐちゃぐちゃに組みたてて遊んでいた。
ニッパーを使って切り離してやすりで整えて、流し込み接着剤で組みたてる、プラモデルがそんな大人のホビーになってしまったのはいつからだろう。
こどもが好きなように作りたくなるプラモデル、そんなプラモデルもそしてそれを売っているプラモデル屋さんも、街の中から消えて行こうとしている。
あるのはガンダムのプラモデルとゲーム機ばかりかも知れない。もちろん、そこにこどもたちの夢が詰まっているのが今と言う時代だろう。
でもこのクリスマスは、トイザらスで買ったカーズの箱を二人で開けて、初めて二人で赤いマックイーンのプラモデルを作ってみたい。
このクリスマスの僕の密やかな楽しみである。


 「サーキットに佇むジュリア」 2012/12/21
思い起こせば中学生の頃、アルファの段付きに乗っていたSさんに誘われてクルマ屋巡りの洗礼を受けたのが、ジュリアが好きになるきっかけだった。
高校生や、予備校生の頃、当時ヒストッリクカーレースをアルファで闘っていたSさんはよくサーキットに誘ってくれた。
ときは90年代始め、まだ薄暗い早朝に高井戸にあったクルマをテーマにしたバーの近くに集合したからし色のナローの911やアルファのジュリア、スーパーセブン。広い通りに停めたクルマたちは空ぶかしをし、僕もアルファに乗せてもらってサーキットを目指した。
TACSやSCCJといったヒストリックカーレースの朝は早く、6時前から車検が始まるのでサーキットに到着したレーシングカーは次々とトランスポーターから降ろされ整備に余念がない。まだ免許もなかった僕は、わくわくする音と匂いの洪水の中、サーキットの張りつめた空気を楽しんでいた。
Sさんの水色のアルファロメオ1750ベルリーナも、そのころ有名なガレージGさんで作ってもらったもので、まだ中古車然としたレーサーが多かった中でセンスの良いヒストリックレーサーの仕上がりを見せていた。
その頃から速いクルマはロータスエランや国産ではブルーバード510、そしてポルシェ911と言ったところで、アルファはとても魅力的だったけれどその重さから苦戦を強いられた。
Gさんのオレンジの1750、白地にイタリアンカラーの段付き、果敢に攻めるジュリアの姿は野性的で、僕の一番のお気に入りだった。

ピットに入ってクルマのまわりでカメラを持ち歩き、ピットウォールからストレートを飛ばすクルマたちを見送る。
ロータリーのベリベリベリと言う音やアバルトの低いエンジン音、ロータスの軽い身のこなし、憎たらしいほど速い、レース屋さんの仕上げた510たち、走っているクルマの音と姿ほど魅力的なものはなかった。
アルファに乗った仲間たちは皆でクルマを押したり談笑したり、その日一日のレースの時間をエンジョイし、アルファに対するこだわりを心ゆくまで喋りながらサーキットの日暮れまで過ごした。

こんなアルファ乗りの仲間たちに囲まれた懐かしい日々にであったのが、このイラストの青いジュリアのオーナーだったTさんだった。
当時やっと大学生になってクルマを買う事になり、何を間違ったかかなりおんぼろのルノーキャトルに手を出してしまう。
そんな故障続きだったキャトルで僕は出かけ、Tさんともアルファ乗りが集まるミーティングで出会っていた。
まわりはアルファロメオやトライアンフ。青い初期型のフェラーリの308がいた事もあった。
そんな中で場違いな黄色いぼろきゃトルを、Tさんはしっかりと覚えてくれていた。
僕のイラストや模型の事もみてくれていたようで、去年の個展でほぼ20年ぶりにお話しする事となる。

アルファロメオに囲まれたお祭りのようなツーリングの写真を見ながら、Tさんと懐かしい話に花が咲く。
80年代に夢中になったクルマ雑誌の広告や、模型屋さんのこと。アルファロメオのミニカーや写真集を手に話は終わる事は無い。
Tさんも乗り継いだアルファロメオをついに手放し、今はあのポルシェが手がけたメルセデスの500Eを足にされている。
時は移ろいゆく。
でもその時々の思い出は消える事はなく、Tさんは今でもアルファロメオに深い愛情をよせている。
Tさんの依頼でアルファロメオの模型を最近製作した。
白い段付きのアルファロメオジュリア、GTAと呼ばれるレース仕様のベースモデルで、ボディはスチールからアルミに変更され涙ぐましい軽量化を施し、ツーリングカーレースで無敵を誇った赤き狼が有名だが、そのとき作ったのは白にグリーンのラインが入ったカタログ仕様だった。
レースに出るクルマのベースモデルたる素の格好よさを表現したそのモデルに、Tさんはいたく喜んでくれた。
そして思い出の青いジュリアのイラストを依頼されたのだ。

サーキットに佇むアルファロメオの写真を手に、僕の思いは20年前にさかのぼる。
あの音やオイルの匂い、早朝の冷たい空気を思い出して、ぼくは日本のサーキットの片隅の写真の背景を手元の写真集のスパのサーキットのピット風景と組み合わせてみた。
アルファロメオにサーキットがよく似合う。
あの懐かしい音の洪水の中の一瞬の静寂をイメージして、Tさんのアルファロメオを水彩で描いてみた。
記憶の中のアルファロメオを70年代のスパのシーンに置き換えて、一枚の絵が出来上がった。
Tさんに喜んでいただき、僕も一つの思い出が形になったのを感じた。

絵を描く事で、積み重ねてきた時間が立ち上がる事がある。
その中に含まれた時間を封じ込めたとき、一枚の絵は力を持つ。

そんな力を信じて、僕はまた絵筆を握る事になる。


 「新しい年に思いを馳せて」 2012/12/28
間もなく、この2012年の年も暮れ、新しい年を迎えようとしている。
気分も新たに次の事を始めたいと思っている方も多いだろう。
重苦しい話題が多く、それでも身の回りのほんの小さな歓びをかみしめ、日々そのときにやるべき事をこなしていく。その中に日常の楽しみがあり、自分のまわりに小さな世界がある。
ネットやSNSで情報やおしゃべりには事欠かないけれど、そんな慌ただしい中じっさいに人と出会い言葉を交わし、時に酒を酌み交わす事こそ人生の至福の時間だろう。
年の瀬や年の初めで出会えるうれしい顔に感謝しながら、自分のこれまでを振り返ってみるのも悪くない。

一週間に一度、こうやって人生やそれまでかかわったクルマたち、好きなクルマのことなどに思いを巡らしてみるのは、素晴らしい体験だった。
ここでもう一つ、昔の思い出を語ってみたい。
時を遡ろう。
時代は1993年の2月、今から20年前の寒い冬だった。僕は手に入れたばかりのおんぼろの黄色い1980年式のルノーキャトルに夢中になり、買った翌年の92年に結成されたクラブ・ルノーキャトル・ジャポンで、写真家のNさんにレトロモビルの話を聞く事になる。
パリの外れのポルトドヴェルサイユにある見本市会場で開かれる旧車をモチーフにした屋内イベントは、まだ当時あまり知られていなくてフランス車好きの一部に注目されているだけだった。
何しろそこに行くと各車のクラブブースやメーカーブース、パーツやから古本屋、本命のミニカー屋にいたるまで驚くべき規模で集まっている天国のような空間だとの情報に心躍らせ、僕とクラブの友人A君は二人でパリを目指す事になる。
寒いパリで地下鉄に乗り、たどり着いた会場に入った時の熱気は忘れられない。ありったけの現金を財布に偲ばせて会場内に潜り込み、僕たちはキャトルのおもちゃをみつけるたびに歓声を上げた。
他にもアバルトやアルファロメオ、様々なアンティークミニカーたちを前に自制心を失い、あっという間に手持ちのお金を使い果たしてしまう。

そのとき目にとまったのは、大きな1/12スケールのルノーキャトルの貨物運搬車、フルゴネットのおもちゃだった。
大柄なボディはとても雰囲気がよく、お店の上の方に飾られていたので僕は値段を聞くのに躊躇した。A君が「あれ、いいですよね」と背中を押してくれて店のおじさんに話しかける。
「コンビアン?」それはブリキかと思ったら手に取るとプラスティック製で薄黄緑に塗られていた。値段も9000円ほどで、友人に少しお金をかしてもらって購入する事ができた。
それはあとで聞くとスペイン製の貴重なモデルで、ほとんど手に入らないものだった。
初めて見る大きなキャトルに僕は有頂天になり、友人のA君も一緒に盛り上がってくれた。その日ホテルに帰って二人の買ったコレクションをベッドに並べると、そこは小さなキャトルミュージアムのようになっていた。

レトロの会場に2-3日通い、会場でもクルマたちをスケッチした。白いフォードフランスのGT40や、水色と黄色に塗り分けられたフェラーリ250GTOの姿に僕の興奮は覚める事はなかった。
やがて街に繰り出すと、そこにはぼうっとしたイエローバルブのフランス車が揺らめく、夢にまで見たパリの景色があった。
僕とA君は、寒い中カメラを握りしめ、当てもなく街中をふらふらとさまよい歩いた。
パリの街で目にするおんぼろの旧いフランス車の姿にうれしくなり、何度もクルマのまわりを回りながらシャッターを押し続けるへんな日本人の二人連れが僕たちだった。
まだ半分錆びたシトロエンDSや、パネルの色がボディの各所で違うシトロエン2CV、へこんだプジョー204と言った愛すべきフランス車が普通に路駐していて、もちろんお目当てのルノーキャトルも通りを曲がるたびにたくさん見ることができた。
通りごとに脇道にそれ、カメラを構える僕たちの姿は人々にどう映ったのだろう。寒いパリで、僕たちの散歩は終わる事がなかった。

ある朝、僕たちはまだ薄暗いモンマルトルを目指していた。サクレクール寺院から裏通りに抜けていき、まだ当時多かった古い車たちを探し歩いているとき、Aくんがぽつりと言った。
「旧いキャトルがいますよ」
見るとそこはレピック通りのオートレピックと言う名のガレージだった。街の修理工場に入場していた旧いキャトルは見た事が無い初期型の独立したグリルを持つモデルだった。
店の親父に片言で話しかけ、親父はうれしそうに対応していてくれた。
僕たちが日本から来て、ルノーキャトルに乗っていると言う事が伝わると、親父さんは誇らしげにキャトルを指差し
「シュペール」
と言って、誇りのつもったボンネットに指で数字を書いた。
「1962」

シュペールとはキャトルの1961年の暮れのデビュー時から極初期に生産された高級バージョンのキャトルで、より強力なエンジンとダブルバンパーを備え、テールゲートはウィンドウが下に降りて、下側をヒンジに手前に倒れると言うアメリカのエステートのような凝った構造を持っていた。そのためにリヤバンパーがぱたりと下に倒れるのも親父はやってみせてくれた。

貴重な初期型キャトルの、それも特別なシュペール、僕たちはうれしくなって何枚もの写真を撮り、僕は朝の光を浴びたシュペールを見ながらスケッチブックに色鉛筆でスケッチした。
不思議な出会いはいつも突然やってくる。
店の親父に礼を言って、僕らは足取りも軽くモンマルトルをあとにした。

やがて日本に帰りクラブのミーティングでおもちゃや写真を披露した時の僕らのうれしさ、クラブの中でしか共有できない歓びはいかばかりだったか。
そのとき、クラブの友人のTさんが写真のウィンドウ横に写っている小さなオーナーの連絡先に目を付けた。
やがて彼は、大変な苦労をしてオーナーと連絡を取り、そのクルマをついに日本へと旅立たせる事に成功するのである。

偶然出会ったクルマから始まる物語がある。人生のだいたいの事は偶然の出会いから始まる。
そのとき目の前にいる人から、次のドラマが始まるかもしれない。
新しい年とはそういうものだ。

新しい年を新しい気分で迎えたい。新しい出会いに希望を持ちながら、この原稿の筆を置きたい。
長くおつきあいしていただいた皆様に、感謝いたします。
今回でこの「スポーツカーに恋い焦がれて」も最終回となります。
長い間ありがとうございました。

これからも、ブログや雑誌、さまざまなメディアでイラストや文章、模型を発表してきますので、ぜひともよろしくお願いいたします。

溝呂木陽 sportscar graphic
http://mizorogi.blogzine.jp/modelers/